美と淫の境界線を伝う雫(『月下の一群』)


美と淫の境界線を伝う雫(堀口大學『月下の一群』)


『シモーン、外套を着よ、黒塗の厚い靴を履け、
 二人して霧の中を行かう、舟に乗った人のやうに。

 其處では、女たちが、樹木のやうに美しく、
 魂のやうに裸で居る、美の住む島の方へ行かう。
 其處では、褐色の頭髪の男たちが、
 獅子のやうにやさしい島の方へ二人で行かう。
 さあ、行かう、私たちの夢によって、幻の世界は待ってゐる、
 其處に行はるべき法律と、木々に花を咲かせる神様と、
 木の葉を輝かせ戰がせる風を、與へられようと待ってゐる。
 さあ、行かう、無垢の世界はいま、棺から出ようとしてゐる。

 シモーン、外套を着よ、黒塗の厚い靴を履け、
 二人して霧の中を行かう、舟に乗った人のやうに。』

 堀口大學の『月下の一群』(新潮文庫 昭和五十五年 第十三刷)より、ルミ・ド・グールモン「霧」の前半部分である。’シモーン’は、詩人にとって実在の愛人なのだろうか。彼女への呼掛けではじまる詩が、本書の中で連作をなしている。

『シモーン、お前の毛の林のうちに
 大きな不思議がある。』(「毛」)

『シモーン、太陽は柊の葉の上に笑ひ、
 四月は、また歸って來た、私たちと遊ぶため。』(「柊」)

『シモーン、水車はひどく古い、
 輪はむす苔に青い、輪は廻る、大きな穴の奥。』(「水車」)

 冒頭引用ばかりで、単なる’情欲の虜となった男のうわごと’と決め付けられても困るので、連作の締めくくりとなる「寺」の、後半の部分も紹介しておく。少なくとも彼の詩が、安っぽい惚気ポエムとはまったく一線を画する切実さを有していると、読む人に納得してもらえるのでは。

『思ひは同じくめぐるだらう、墓場の死人たちの上を、 
 今はもう、花と草葉になってしまった、人たちの上を、 
 墓石の上に、今ではただ、名だけが遺ってゐる人たちの上を、 
 これ等の人たちを最後まで守る十字架の上を。

 二人が、寺から歸る頃、世は夜に閉ざされてゐるだらう。
 二人の姿は、松の木の蔭に、幽霊のやうに見えるだらう、 
 さうして二人は、神様のことを、自分たちのことを、さまざまなことを、 
 二人を待ってゐる犬のことを、庭の薔薇の花のことを思ひ合すだらう。』

 艶と淫、その剃刀の刃も通らぬほど細い狭間を伝う雫が集まり、澄みきった言葉の泉をなす。特に『月下の一群』の’シモーン’連作は、我が国の翻訳詩・オリジナルすべてあわせた中でも、最高の恋愛詩群だと自分はみなしている。

 なお、かって新潮文庫より大學訳『グウルモン詩集』が出ていたが、現在は絶版。文庫に強い古書店によると、相当な難物らしく、店主の長いキャリアの中でも現物を扱った経験は、たった二度しかないとのこと。

ZOUSHOHYOU


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